ジミ・ヘンドリックス
(本名:ジョニー・アレン・ヘンドリックス)
生:1942年11月27日、シアトル
没:1970年9月18日、ロンドン
サウンド、テクニック、パフォーマンスとどれを取っても当時としては革新的でありながら(エクスペリエンス名義としては)オリジナルアルバム3枚、活動期間4年という短命の天才ギタリスト。
ジミヘンのイメージは?というと誰もが思い浮かべる1967年6月18日モンタレーポップフェスティバルにおけるストラトキャスターにオイルで火をつけるステージ。当時無名だったギタリストの伝説はここから始まった。
1965年
ジミは自身のバンド『ジミ・ジェイムス&ザ・ブルー・フレイムズ』を結成し、グリニッジヴィレッジを中心にギグを行っていた。右利き用のギターを逆さに持つ独特のスタイルや歯で弾いたりといったトリッキーなプレーが話題となり、アニマルズ、ローリングストーンズといった有名人もたくさん訪れるようになる。
”エリック・クラプトンに会わせてやる”
という約束でアニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーが翌1966年ジミをイギリスへ呼び寄せる。すぐにドラマーのミッチ・ミッチェル、ベーシストのノエル・レディングとで「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成。
間もなくシングル《ヘイ・ジョー》を発表しロンドンやヨーロッパ大陸にてプレーし始める。超人的なテクニックで喝采を受けたジミはヨーロッパで一躍スターダムにのし上がる。
その後1967年6月伝説のモンタレーポップフェスティバルに出演。その直前に発売されたファーストアルバム『アーユーエクスペリエンスト』には、シンプルなファズが利いたギターリフで新しいロックアンセムとして当時広く受け入れられたシングル《パープル・ヘイズ》やレッチリもカバーする《ファイヤー》、《ジ・ウィンド・クライズ・メアリー》《フォクシー・レディー》といった名曲も収録。全体を通して神がかり的なプレーの連続でロック界に革命を持ち込んだ。
全盛期
1967年12月セカンドアルバム『ボールド・アズ・ラヴ』発表。溜息が出るほど美しいバラード《リトル・ウィング》ではソングライターとしての力量を披露。全体としては前作よりサイケデリックな面をフィーチャーし、スタジオワークという部分でも凝ったアルバムである。テープエコー、リバーブ、ファズボックス、ワウワウと様々なエフェクトを取り入れ、アナログステレオサウンドの限界にも挑んだ意欲作である。
翌1968年10月に傑作『エレクトリック・レディランド』リリース。ありとあらゆるエフェクトギターテクニックを詰め込んだボブ・ディランのカバー曲《ウォッチタワー》やサイケデリックなブルースナンバー《ヴードゥー・チャイルド》などが収録されたジミにとっても生涯における最高の演奏を聞くことが出来る。このアルバムは初の全米チャート第一位を記録したことで名実ともにスーパースターになった瞬間ともいえる。
真実の音
その後、訴訟問題やらヘロイン所持逮捕などジミを取り巻く黒い影が私生活を乱し始める。1969年半ばエクスペリエンスを解散させたジミは新しい仲間とともに伝説のウッドストックフェスティバルに3日目のトリとして出演する。その中で演奏されたアメリカ国歌《星条旗よ永遠なれ》は表面的なアメリカではなくアメリカが抱える内部の混乱を独特のアーミングとフィードバックで表現した真実の音であるように思われる。
エレクトリック・レディ・スタジオ
1970年8月自身のスタジオをニューヨーク市内に完成させる。その直後ワイト島フェスティヴァルとヨーロッパ・ツアーのためにイギリスへ旅立つがジミは二度とアメリカの土を踏むことはなかった。9月18日ロンドン滞在中のホテルにて睡眠薬中毒により嘔吐物を喉に詰まらせたとして病院へ運ばれる途中に死亡。
ジミのお墓は出身地シアトル・レントンの『グリーンウッド・メモリアル・パーク&セメタリー』内にあり今でも数多くの観光客がジミを偲んで訪れている
いい時代だったんだね、最近、この年になって本当に強く思
そして、天才とは皆短命なんだよね
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新しいもの好き、形から入る、かっこイイこと大好き、仕事はまじめに楽しく、、
by kibmx
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